いよいよ波に乗ってしまい、後輩らからの恫喝を受けながら、ブランクを埋める為今月の日記まで漕ぎ着ける事が出来た。夜な夜な書いてはUPするものだから、毎日寝不足です。俺の青春の睡眠時間をどうしてくれるんだオマエら。
まあ、会うたびにしつこく「ブログブログブログ」と言い続け、先輩に対してプレッシャーをかけてきた後輩達ではあるけれど、今日だけは礼を言わなければ。
ども
てな訳で・・・
6月6日は常陽銀行福島支店100周年記念パーティーがあった。
140名も集まったらしい。総会の倍くらいの人数である。
自分は3月に早々と、心の友横江課長(つくばの支店へ副支店長として4月に栄転された)から「6月6日に100周年の記念パーティーを開くので、予定開けておいて貰えませんか?」と言われていたので、「喜んで」と、3ヶ月前から予定を入れておいたのだ。
100年も会社が続くというのは大変なことである。その間には太平洋戦争もあったわけだし、オイルショックがあり、バブルの崩壊もあり、リーマンショックもあったんだ。国の貨幣が使えなくなった事だってある。
自分が作った会社も小さいままでいいから100年200年と続いて欲しいものです。
翌日。
郡山市喜久田町に築造していた23区画の分譲地が完成した。
これにはとても長い月日がかかってしまった。
土地購入の相談を受けてから2年が経過したと思う。
以前は分譲に萌えて、年間100区画とか作っていたけれど、去年の70区画から今年はこの23区画で終了です。
実は、分譲地に取り組む時間が無くなってしまった。
去年の70区画も片手間のようになってしまい、区割りと銀行融資の相談を行う他はほとんど業者さんまかせ。(ちゃんと任せておける業者さんがいるので安心なんだけど)この23区画も、開発の完了検査に立ち会うことが出来なかった。これでは分譲主として失格である。
仲介が出来なくなってから5年以上が過ぎ、今年も頼まれたもの1件だけは仲介したけれど、物件の調査、重説や契約書の作成をする時間がない。しっかりできないのだから、受けないほうが良いのだけれど、昔からのお付き合いで指名されたら断るわけにはいかない。
今月末に全区画引渡しを終えるので、それから今後の身の振り方についてよーく考えようと思います。
こだわりの回転広場。
ツッコミ道路と呼ばれる現場では必ず使う仕上げ方です。この回転場があれば、前進で入ってもバックで車庫入れが出来る。
毎日バックで道路まで出て通勤するなんてウンザリしちゃうでしょ?
道路をあまり作らないで宅地部分の面積を増やし、売値を高くする(儲かる)ようにと考える業者さんが居るけれど、自分は真逆の考えである。道路が多くなれば工事代金が上がり、売る面積が減るから利益は薄くなる。それよりも売りやすい(住みやすい、使いやすい)土地を作り、早期で売却をして次の展開を考えた方が簡単で気楽ある。売れるまでじーっと待つなんて、自分の性に合わないんだ。
こーゆー仕上げのテクニックというか、利便性を良くする方法は今までに300区画くらい作って販売してきたので自信がある。
分譲好きなんだけどな。
食後にウヰスキー飲みながら、リビングのテーブルで区割りを考えて線を引いたりするの、楽しいんだよね。ワインだと眠くなるからダメ。区割りを作るときは絶対にサントリーオールドの水割りなんだ。飲むほどに覚醒して行き、次々にいい案が浮かんでくる。
先週末、久しぶりで阿武隈鍾乳洞へ行ってみた。
久し振りといっても、学生時代サークルの仲間らと行ったきりだから、30年ぶりとかになるのか。
30年間この鍾乳洞は殆ど変化していないのだろうけど、自分はいろいろな事が変わってしまった。
歳をとっていくのは残念なことだけれど、知識が増えていくのは悪くないものです。
今から学生時代に戻りたいか?と聞かれたら、間違いなくNO!と答えると思う。何も知らない、目標も解らない、アホな若造でした。(ある意味今でもアホなままだけれど。)
ライトアップとかしていてとても神秘的だった。
内部の気温は15度。とても涼しいんだけど、湿度が90%以上あり、少しずつ汗をかいてくる。
ピラミッド内部も涼しいけれどじんわり汗をかいてきて、汗や人の呼吸で室内にカビが発生してしまい、1日300人限定となってしまったわけだけど、ここはもともとジメジメと湿っているからカビも生えないのか??
約40分間の地底旅行は日常では味わえない、なかなか楽しいものであった。1年に1度くらいなら来てもいいかな。
昔、昭和40年頃まで岩を削っていたらしい。その時に偶然発見されたと聞いた覚えがあるけれど、間違っていたら教えてください。
こんな急な角度で150mもよく削ったものです。
この高度感のある橋からの景色がなかなか良かった。標高も500mくらいあるからね。外も涼しいですよ。
翌日。
天童のイオンモールへ足を伸ばしてみた。名取エアリよりは狭いらしいけれど、どんなお店が入っているのか、隆盛しているのか見てみたかった。名取とは店の構成が違くて面白かった。日本は何処へ行っても同じ店ばかりがロードサイドに並んでいるのに、イオンモールの中で違っているのが不思議だった。
そういえば秋田のイオンモールや新潟亀田のイオンモールも構成が違っている。地域によって売れる物と売れないものがわかっているのか、人口や世代の構成によって出店企業が変わるのか、色々な事が考えられるけれど、今度プロに聞いてみようと思う。
1階をウロウロしていると後ろから「須藤社長!!」と呼ばれたような気がして、まさか天童で知り合いには合わないよなーと思いながら振り返ってみると、きらやか銀行の西塚支店長が立っていてとても驚いた^^;
支店長も私が天童に居ることに驚いていたけれど、ご縁のある方とは遠方へ行っても案外会えるものです。
高校の先輩伊東しゃんから、県大会出場時の写真がデータで送られてきた。中央の一番後ろに立っているのが私。これ、高校2年の時だからまだ16歳なのか?
たけちゃんや岡忠、忍、晴美ちゃん、小谷部ちゃん、松浦、まなぶ、みんなが揃っていて懐かしいんだけれど、あれ??東城が居ないんじゃないの?あいつまたバックれていたのか?ティンパニーは新二のように見えるけど。
この時はパーカッションに3年生が居なくて、2年生の私がパートリーダーをつとめていたはずだけれど、この大会直後の部長、副部長、パートリーダーの改選があり、投票を行うと何故かダントツ1位で自分が部長に選ばれてしまった。自分は忍に入れたと思う。
今思えば貴重な素晴らしい経験だけれど、ブラバンに入ったのはドラムセットがあったからでドラムがやりたかっただけだし、あの頃は他にロックバンド5バンドくらい掛け持ちでやっていたし、(メタル、ハードロック、パンク、普通のロック、フュージョン←カシオペアのコピバンとかやっていたっけ^^)学校だって早退したり休んだりと気ままな高校生活を送っていたものだから、団員を束ねるとか、指導するとか、指揮をしたり、無理というか出来ないと思っていた。
保原高校吹奏楽部始まって以来初めての事だったと思うけれど、「自分を部長にするというなら条件がある」と言い、副部長を2人にするようにしてもらった^^
で、忍と小谷部ちゃんの二人に副部長やってもらったんだ^^
二人とも中学からのブラバン経験者だし、知識や経験だって豊富だった。
自分は相変わらず遊んでばかりいたけれど、キメるところはキメたし、佐々木久子先生にはなんとなく可愛がられていた。東城が言うには「須藤先輩と俺は天才的だったから、練習しなくても本番でビシッと演奏できた」と言っている^^
確かに、そう思わないと、いつ練習していたんだか分からないくらい練習していなかった。けれど、文化センター大ホールでの定期演奏会や、コンクールではピシッとキメていたと思う(自画自賛しております)
と、言い訳はこの辺にしておいて、やっぱり遊び人の部長を持つと、副部長を中心に団員が纏まっていくものなのだろう。
とにかく、自分には高校の3年間も、宝物のようなキラキラした日々でした。今も毎日ホンワカ楽しいけれど。
これからももっとキラキラと生きていけるように頑張るべ^^
ね!
fin
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